DQN親と就職


どうも、22卒で就活に勤しんでいるものです。



最近順番待ちの列に割り込んだり、電車の中で大声で電話してるような「DQN」を見かける機会が多かったので、暇つぶしも兼ねて1つ記事を書いてみることにしました。



意外に感じるかもしれませんが、ある有名な映画には毒親と就職という2つのテーマが設定されているのではないか、というのが私の持論です。今回はその映画を軸に、話を進めていこうと思います。









その映画とは、 千と千尋の神隠し です。

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千尋の両親がDQN的性質を持つーーーこの事実が伺えるエピソードが、2時間の映画の中でいくつか散りばめられています。




この映画は、千尋が両親とともに引越し先のニュータウンへと向かう道中から始まります。




親子の車は狭い山道を走っていくものの、もちろん未舗装なので車はガタガタと揺れ、車には草や木の枝が当たり視界も不良、そんな中爆走する父親に対し、見かねた千尋が「お父さん大丈夫?」と聞くと「任せとけ、この車は四駆だぞ!」と謎のセリフ。

DQNには言葉が通じない。普遍の真理ですね。





一方、序盤のトンネルをくぐるシーンから、「千尋、そんなにくっつかないで、歩きにくいわ。」と突き放すところをはじめ、序盤には特に母親が千尋に対して冷たく当たるシーンが多々見受けられます。
この点からは、DQNとまでは言えないものの、多少のネグレクト的な含みを持たせた表現がなされているといえるでしょう。




印象的かつ分かりやすいのは、"お店に陳列してあるものを勝手に食べ始める”という暴挙に出るシーン。

誰もいない店内で「そのうち来たらお金を払えば良いんだから」と肉を食べ始める母親。
千尋が「ねぇ帰ろ、お店の人に怒られるよ!」と正論を言うと、
「大丈夫、お父さんがついているんだから。カードも財布も持ってるし。」と、車のとき同様に意味不明な解釈で食べ物を山程に盛る父親。
その結果豚となり、千尋がそれを元に戻すために奮闘するといった形で、物語は動いていきます。


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以上の点から 千尋の両親=DQN親である という前提を元に、話を進めます。




さて、「DQN親と就職」というテーマがどう通じてくるか?といった点について





このような毒親に育てられた千尋は、どのような子供に育ったのか。これについても映画内で表現されています。


最大の特徴は、社会場面のルールを教わっていないという点。



例えば釜爺にお世話になった後、リンに付いて行くシーン。そのまま湯治場に向かおうとした千尋に対して、
「釜爺にお礼は言ったのかい?」
とリンに咎められているほか、


ハクによって湯婆婆に引き合わされたシーンでは、入室しようとする千尋
「ノックもしないのかい」
と湯婆婆に嫌味を言われてます。


これらの行動は、それを「忘れていた」というよりかは「教わっていなかった」かのように描かれています。



一方で、この世界では仕事を持たない者は動物に変えられてしまうとハクに教わり、まだ幼い千尋は労働を強いられてしまいます。





このような毒親に育てられ、常識を身につけられずに就活に至った千尋に対し、社会はどう接するのか。湯婆婆が答えを示してくれていました。




「なんであたしがおまえを雇わなきゃならないんだい!?見るからにグズで!甘ったれで!泣き虫で!頭の悪い小娘に、仕事なんかあるもんかね!

それとも……一番つらーーいきつーーい仕事を死ぬまでやらせてやろうかぁ……?」

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...と言われ、実際にお風呂屋さんでヘドロにまみれた「名のある川のぬし」のお世話をさせられるのでした。

















千尋はこの後、その初仕事をやりとげ、湯婆婆にも褒められることで「全力で頑張った事を、正しく認められる」経験を積みます。



これによって、エリクソンのいう「勤勉性」を身につけ、成長し社会性を身につけるわけですが、あくまでその成長速度は映画の中での話。毒親から脱却し社会性を身につけていくということは、想像以上に大変なのです...